6月の水性演劇部が終わった後に考えたこと
- 伊藤ま
- 6月23日
- 読了時間: 4分
更新日:6月25日
水性演劇部には4月に初めて参加して、そこでなんだったんだ!と思った。最中も楽しくて、終わった後も楽しくて、ただ何が起こってたのか全くわからなかった。その時に参加していた遠藤ふみさんと、髙山さんが今度神保町試聴室でライブをやるとのことだったので、それを観に行ったら、一緒に参加していた演劇部の方々がいて、喋った時にさわこさんが6月の演劇部行こうよと言ってくれたから行くことにした。
ちょっと考えて、なんというか何が起こっていたのか確認したいと思って、参加ではなくて見学してみようと思った!
で今日行ったら予約キャンセルが多くて伊藤くん参加して欲しいと言われて参加した、予約する時に見学もいいけど参加もしたいなとすごく迷ったから、参加できて嬉しかった。
過去の自分に変顔したら過去の自分は笑ってくれると思う、と、演劇部から帰ってシャワー浴びてドライヤーをしながら思った。
もう思い出せないくらいだけど過去の自分とずっと一緒に、近くで生きていた時があった。今は全然そうではないし、それはあまり自分にとって良くないと思って避けてもいる。
過去は自分の遠くに置いた方がいいっていうのを色んな本読んだり実感したりして思っていた。
というのは、「昨日こうだったから今日もこうだろう」「この人とはこのように言葉を交わせばいいだろう」ていうふうに未来の行動は過去の経験や知識によってある程度統制されていて、そうやって安定した営みを送っていて、これを自分に当てはめると、なんか変わるためには過去を遠くに置かないといけないんじゃないかと思った。自分が過去のことをずっと考えるのは自分の範囲を制限していたことになるんじゃないか、囚われていたんじゃないかと思って、つまり、もしかして、過去の自分を遠くに置けば、未来の行動が広がるんじゃないかと思ったりした。
とにかく変わりたいと思いながら、周りの環境もいろんなことも重なって気づいたら自分から過去が遠く離れていた。
自分の過去を大事に大事にして一緒に生きていた時期から、去年は「過去の自分にざまあみろと言いたい」と思ったりして、今日、「過去の自分に変顔をしたら過去の自分は笑ってくれると思う」とふと思った。
水性演劇部が面白いと感じるのは、なんかこういうことと似てると思う。過去は、ガラスのショーケースに入っていて触れない、けれど演じることで無限の別のありようみたいなのが突如現れるような感じがする。
過去にあったある出来事をみんなで丸くなって共有すると、多分みんなの中にそれぞれのイメージが作られる。その後軽く演じてみる。最後に順番を決めて本番の演劇が始まる。シークバーは終盤を移動している。
もう触れないはずだった出来事が演劇になっている時、絶えず「今」に、別のありようがありえているって感じになって、それが不思議すぎて面白い。誰かが発話すると、その発話以外が生まれている、みたいな感じです。個人的には、演じると自分じゃなくなるという感じはしなくて、ずっと自分だけど(それもなんか変だし面白いです)、どこにもいないしどこにでもいるような感じです。これから何が起こるかわかっているのにわかっていないのが、変です。
木こりが斧で木を切り倒す時、木こりから木への単なる一方通行の動きに思えるけど、木の表面のどんどん深まっていく切り口や、斧が刺さる音とかで木は木こりにフィードバックを与えていて、木こりは斧一打ち一打ちにそれを受け取っているみたいな話をどこかで聞いたことがあります。
演劇の中でなら過去とそういう関係になれるのかもしれません。自分やみなさんのいろんな過去の出来事に入り込んで、それがなんか別のなにかになって自分に向かってくる感じです。今までなかった感覚で、演劇の中でだけできる過去とのつきあい方なのかもしれないと思いました。過去の自分に変顔をしたら笑ってくれると思うというのはこういうようなことです。
みなさんと輪になって話をしたり演劇を作るのが本当に楽しいです、またよろしくお願いします。
伊藤ま
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